ブログ更新が滞っております。
最近、活動の軸を新曲制作とYouTubeでのリリックビデオ公開にシフトしており、そちらのアピールを兼ねてTwitterやInstagramでの交流を優先しているため、ブログの執筆にまで手が回っていないのが実状です。
体が二つあれば両立させたいのですが、思うようにはいかないものです。
さて、今回は作詞の話。
先日、ひょんなきっかけで、ザ・ドリフターズの「いい湯だな」を聴きました。
私は、フジテレビ「ドリフ大爆笑」のエンディング「いいとこだ」しか知らず、オリジナルをちゃんと聴いたのはそれが初めてのことでした。
若かりし加藤茶さんの「ア ビバ ノノン」の合いの手が思いの外かっこいいな、とか、オリジナルはテンポが遅めなんだな、とか色々と感じながら聴いていたのですが、
不意に耳に飛び込んできたフレーズ、
「湯気が天井からポタリと背中に」
この歌詞に衝撃を受けました。
短い尺の中に、最大限の情報量と情緒が詰め込まれているためです。
これは、「湯気が天井に上がって水滴になり、温泉に浸かっている自分の背中に落ちてきた」というシーンでしょう。
本来、湯気は落ちてこないのですが、「天井から」の一言で、「水滴」になったことを表したことにして、ここでは水滴の言葉を省いています。
そして、背中に落ちてくるという情報を伝えるのに、「落ちる」という動詞を使わず「ポタリと」の音に置き換えて、「背中に」で文を切っているのです。
なんと巧みなんでしょう。
情報の最適化と、情緒の醸成という簡単なようで難しい作業だったと推察します。
私だったら、このシチュエーションを描くとして、
最悪、
「湯気が天井で水滴になり」
までしか伝えられなかったり、
もう少し成長しても、
「天井から水滴が背中に落ちて」
が限界だと思うんです。
この圧倒的な表現力こそ、作詞の醍醐味だと思いますし、改めて私の目指したい歌詞のあり方に立ち帰るきっかけとなりました。
永六輔さん、尊敬します。