邦秋の、ギャラリー「個と場」

宮崎在住のランチタイムミュージシャン、邦秋(くにあき)の頭の中。アイデア備忘録・雑感・お役立ち情報から創作活動(音楽・歌詞・散文詩等)の展示・解説まで幅広く。関心事:DTM・音楽・ロゴ・デザイン・教育・APPLE・効率化他

20200814 「おかあさんといっしょ」の優しさ

新型コロナウイルス感染症は、私たちの生活の様々な場面で変化を及ぼしています。

それは、NHK Eテレの「‪おかあさんといっしょ」も然り。

従来は、毎日大勢の子供をスタジオに招き、おにいさんおねえさん(以下、おにいさん達)と一緒に歌ったり踊ったりしていましたが、コロナ禍以降、子供不在のままの収録という状態が続いています。

視聴者が飽きないようにと、毎日あの手この手で目を惹く企画が繰り広げられている中、番組のエンディングを飾る曲「べるがなる」の中で行われる「あっち向いてホイ企画」にて小さな発見をしました。‬

これは歌の途中で、おにいさん達4人が一人ずつ視聴者に向けてあっち向いてホイの仕草をして、おにいさん達が指した方向を向いたら視聴者が負け、というもの。

 

その中で、‪おにいさん達は、上下を指すときは「上だよ」「下だよ」というのに、左右のときは「こっちだよ」と言っているのです。

これはきっと、‪おにいさん達本人の視点と、視聴者の視点で左右が反転してしまう‬ため、家庭内で右左を教える際に混乱が生じないよう、配慮されたものであると予想しています。

 

あっち向いてホイの言葉一つにもこだわる「おかあさんといっしょ」。

その優しさに心が温かくなりました。

…勝手な思い込みですが。

20191103 教員のビジネスマナー

先日まで、勤務先にて高校生のための体験学習を企画・運営いたしました。

こうした中高生を受け入れる事業の度に気になっていることがあります。

 

それは、「企業へ挨拶に来られる教員の方のビジネスマナー」です。

 

私の勤務先で行う体験学習では、冒頭にオリジナル名刺作成と名刺交換の練習の時間を必ず設けています。

そして、体験学習生に、その後期間中に出会う社内外の人たちと名刺交換をしていただくのです。

これは、名刺を交わして挨拶をすることが、社会人の第一歩であるという考えによるもので、毎回ブレずに実施しています。

 

そんな中、企業へのお礼の挨拶と生徒の様子の見学を兼ねて、担当教員の方が来社されることがあります(それも、大抵がノーアポ)。

 

その際、教員の方は自身の名刺を持たずに、ぎこちない仕草で私の名刺を受け取られるのです。

きっと、中高生にとって、「先生」は頼りになる存在。それなのに、「先生は一歩学校を出ると、名刺交換一つもできないんだ」と思われることにメリットはないでしょう。

少なくとも私がここ数年で担当した体験学習において、公立中学校・高校の教員は100%名刺を持っていませんでした。

その方々が、総じて初めての企業挨拶だったならまだしも、そうでないのであれば、一度名刺を渡された時点で「自分も名刺を持たなければ」と気づいていただきたいものです。

何度企業側から名刺を渡されても、教員は名刺を持たなくていいという潜在意識があるからこそ、毎回「すみません、名刺が無くて…」で切り抜けようとする思考になるのでしょう。

 

あくまで、今回来社いただいた教員の方や、これまでご挨拶にお越しいただいた方々を悪く言うつもりもなければ、不快感を覚えたわけでもありません。

 

教員の世界における文化が、企業人のそれとは別物であるというだけであることは承知しているつもりです。

 

ただ、教員の方々も立派な大人である以上、社会に出た際に学外の方と対等に挨拶ができる程度のビジネスマナーは備えていた方が、何かとよろしいのではないかと思っています。

それが、社会経験を積もうとしている体験学習中の中高生が目の前にいる場面では尚更です。

 

これをお読みいただいている教員の皆様、教育関連機関の皆様、ぜひご一考を。

20190927 英語のスペルミスにご用心

いつもお世話になっている薬局の入り口の飾り。

Wellcomeと書いてあり、ずっと気になっていたのですが、いつの間にか「Welcome」と修正されていました。

 

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お店の看板やチラシには、皆さんが気づかない間違いが多くあります。

デザインを依頼する方や実際にデザイン業務を担っている方。これを機に、使用されている外国語については、しっかり辞書を調べて確認してみて下さい。

 

私が思う、大変多く見られる間違いは以下の5つです。

 

  • Degital → 正しくは、Digital
  • infomation → 正しくは、information
  • wellcome → 正しくは、welcome
  • X'mas → Xmas もしくはChristmas
  • 1th, 2th, 3th → 正しくは、1st, 2nd, 3rd

※11th, 12th, 13thは正しいですが、20以降は21st, 22nd, 23rd)

 

それ以外にも、"Let's Halloween"等に見られるLet'sの乱用(そして、Let's + 名詞という誤用)等、英語の使い方で気になることが日常生活で多々あります。

ギャラリー個と場(ことば)としては、日本語だけでなく、私たちが扱う言葉全てに敬意を表していきたいものです。

20190909 いかに言葉を操ることができるか

社会人生活が10年を超え、歳上だけでなく、歳下の方とも話す機会が多くなってまいりました。

総務部という立場上、人と人との「調整」を図らないといけないことも多く、そのためにはどうしても「いかに言葉を操ることができるか」が鍵となってきます。

 

歳上の方との対話で心がけたいのは、原因と結果を完璧に理解しておくこと。

時間のない経営層との会話においては、正しい情報を端的に伝えなければなりません。

最も端的に伝えるべきは「結果」ですが、経営層としては「なぜ?」も気になるところ。

その質問にも素早く的確に答える必要があります。

 

そのためには「情報のインプット」と「経過の正しい理解」と「結論をまとめる力」が欠かせません。

これらは全て、言葉を操ることで為されるものであり、その能力は言葉を用いる頻度とそのときの集中度によってのみ磨かれていくものと考えています。

 

 

歳下の方との対話で心がけてたいのは、傾聴に徹し、相手の伝えたい‪ことの根源やその先について、想像を働かせること。

若い方の…全員とまではいきませんが、多くの方が、ぼんやりした考えだけをもって発言されている印象があります。

なぜそうなったのか、なぜそう思うのか、それによってどうなるのか、それによって何がしたいのか…

自分自身に係ることすら、述べることができません。むしろ、そこまで深く、あるいは論理立てて考えられていない、というのが正解でしょう。辛口ですが。

きっとそれは「言語化する」という習慣がなかったために起きている現象なのだと考えます。

 

ぼんやりしたものを、確固たる自分の想いや意見にしていくには、一つ一つを言語化していくことが肝要です。

はじめは、発する言葉自体がぼんやりしていても、その言葉に行き着いたルーツを探ったり、その先に何わ見ているかを問うたりすることで、それらの言葉一つ一つが足跡を作っていき、一本の道筋が見えてきます。

そうしてぼんやりしていたイメージが、くっきりした画像・映像になっていくわけです。

まるで、視力0.02の私が、メガネの度を徐々に上げていく感じでしょうか(笑)

 

言葉を知っているか否か、使いこなせるか否かは、思考を深く広くできるか否かに直結する要素といえます。

そう、言葉はただ伝達するだけのツールではないということです。

その人が持ち合わせる言語がその人の世界観の形成や思考に影響を与えることとされる「サピア=ウォーフの仮説」というものもあります。

これはまだ仮説の域を脱しませんが、私は非常に説得力のある説だと思っています。

 

たかが言葉、されど言葉。

人間であるからこそ、ぜひ皆さんに大切にしていっていただきたい存在です。

 

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 本日の写真作品:babel's artworksさんによる写真ACからの写真

20190907 目指すものの矛盾

建設業に勤め、教育に関心がある、ということから、地域(宮崎)や日本の将来について考えることがしばしばあります。

もちろん、研究者の方の考えの質と比べると、くだらない独り言のようなレベルですが。

 

そうして未来を考える間に、色んなベクトルが頭の中をよぎり、そのどれもが間違いではない気がするのが難しいところ。

 

例えば、

宮崎は、高校卒業後の若者の定着率の低さが課題である、というのも頷けるが、一度県外や海外を経験して、また帰ってきてほしいとも思ったり。

 

今後は、情報機器を使いこなすことが大前提となる時代となるので、教育段階初期の頃からタブレットなどの機器を用いた教育が良い、とも思いつつ、小さい頃は原理原則を身につけるためにも機械に頼らない学習をしてほしいし、人間だけが持ち合わせている「書く」という能力が今後も損なわれず綺麗な字を書ける人に育ってほしいのでアナログでの読み書き計算等の鍛錬は無くさないでほしい、とも願ったり。

 

地域の方々が学校にて無償で教育活動の補助をしてくださるのはとても素晴らしい活動であることはわかりつつも、無償という点でシステムとしての持続性に疑問を感じたり、安全上不安が拭えなかったり。

 

宮崎がもっと都市化して、若者が「田舎に住んでいる」と思わせない街にすることで宮崎に定着する、もしくは帰ってきたくなるように仕向けるのがまちづくりの鍵である気もしつつ、そんなことをしても東京には勝てないのだから全く違う魅力の醸成を図った方がいいのかも、とも思いつつ。

 

恐らく、こんな話は、自分の中だけで考えるよりも、他者と意見をぶつかり合わせることで磨いていかなければならないのでしょう。

 

本ブログ「ギャラリー個と場」が、そんな私の思考の足跡になって、その過程で地域や社会の役に立つヒントの欠片を残していけたら、と思っています。

20190904 教育の行方

昨日、教育関係の方々にお誘いいただき、食事会に参加してまいりました。

お相手は、教職でありながら「教育行政」の方へ進み、学校の外から教育全体の在り方を考え、改善に取り組んでいこうとされていらっしゃる方々でした。

私も、(実は)教育関係の外部委員を拝命していることもあり、教育に関する学校・地域・産業の連携の理想系については常々考えているのですが、昨日の会話の中では大きな発見がありました。

 

私がこれまで持っていたイメージとしては、教育の中心は学校にあり、学校が地域や産業をいかに巻き込んでいくか、という視点でアレコレ考えていました。

しかし、考えの中心を地域に置く、という発想もあるのです。

つまり、各地域が、それぞれに大切にしたいもの(≒地域ブランド)を確立し、その場所に求める学校を地域が作っていく、ということ。

その根っこには、児童・生徒に地元愛を持ってもらいたいという想いがあります。そして、そうするためには大人たちがその地域の魅力をしっかりと自覚し、育んでいかなければなりません。

地元が好きな人が育っていくことこそ、少子化時代におけるその地域の存続の一つのカギとなります。

(もちろん、時代に即したグローバルな視野を持つことも大切ですし、地域存続だけが教育の目的だと言っているわけではありません。念のため。)

 

宮崎県や宮崎市の子供に求めるものは何か、そのために必要な教育はどんなものか、将来の宮崎での暮らしをどうデザインしていくか…等々、様々な考えやアイデアをつなぎ合わせていきながら、地域・学校・産業界がするべきこと・できることを考えていくことが必要です。 

 

また、地域に限らない一般論として、子どもを育てる上で大切にしたいのは、学力よりも「好奇心をもつ心」であることも再確認しました。

知りたい・学びたい・見たい・やってみたい…これらの好奇心が旺盛であればあるほど、学ぶ意欲が湧く事で学力の向上が期待できますし、将来の自分像を探す上でも大いに役立つはずです。

そして、それは人材不足に悩む産業界の願いでもあるでしょう。

 

将来の日本や世界を支える子どもたちのこと、そして今住んでいるまちのことを思えば、教育がいかに大切かという結論に行きつきます。

これからも思うことや発見したことがあれば、このブログに残していければと思います。

20190805 英語教育に思うこと

今年の4月に小学6年と中学3年を対象に実施された学力テストの結果として、英語力の習得に課題がある、といった報道が先日なされていました。

 

私事ではありますが、私は小学生のときに教員を志し、中学生でその科目を英語と定め、大学も教育系学部の文系・英語専攻の道を進みました。

その一環として、在学中に米国に1年間留学したのですが、その生活を通じて学校教育における英語教育の限界を痛感。

その気づきも数ある理由の内の1つとなり、結局、私は教員になるという選択肢を選びませんでした。

 

 

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【以下、かなり偏った私見を述べますので予めご了承ください】

 

学校教育には様々な意義・目的があります。

その中で、「科目教育」をなぜ行うかについて考えなければならないわけですが、その総論は後日私見を述べさせていただくとして、

「科目教育」で行っていることと言えば、「知識と技能を養うこと」であり、それらは「座学と実技で得られるもの」に分類されると考えています。

 

私なりに以下のように分けてみました。

知識A:知識×座学=国語の漢字・語彙、数学の公式、歴史全般、理科の用語など

技能A:技能×座学=国語の文章表現能力、数学の計算能力など

知識B:知識×実習=理科の実験全般、体育の各種競技におけるフォーメーションなど

技能B:技能×実習=体育の運動能力、図工のデッサン力、家庭科のミシンや包丁の使い方など

 

各分類の具体例はかなり荒くはなっておりますが、以上のようにラベリングしてみると、入学試験のために学ばないといけない対象となっているのは、知識A群と技能A群。社会的に(表面上)重要視されているカテゴリーといえるでしょう。

逆に技能面、特に技能B群は、人生を豊かに、そして健康に生きていく上で必要なものという印象があります。

スポーツ選手や芸術家を志す方でない限り、運動神経が悪くても、絵を描くのが不得手でも成長過程において大きく不自由することはない社会構造となっています。(あくまで一般論として考えられるものであり、私の意見ではありません)

 

さて、冒頭の新聞記事に戻ります。

よくこうした学力の話題になると決まって出てくるのが英語の実力、特にSpeaking(話す)能力が足りないという指摘。

私は、英語のSpeaking能力は技能Bに属するものと思っています。しかし、技能B群の中において、他教科に比べ英語のSpeaking能力だけが、教養の域を超えて実力の定着が強く求められ過ぎているように思えて仕方がないのです。

英語が、他教科のように人生の豊かさを高める教養の一部として、そして、国語を学ぶ上での比較対象として学ぶのであれば、今のままでいいでしょう。その場合、英語の4技能の習得に対して目くじらをたてて評価する必要がないと思います。

しかし、多文化共生社会に向けて、日本国民全員が英語による一定のコミュニケーションができるよう育成したいのであれば、英語の授業数の圧倒的な増加はもちろん、国として日常生活から英語が傍にある暮らしにシフトしなければ、その目標は叶いません。

私たちは日本語の基礎をいつの間にか身につけてきましたが、ある程度成長してから習得を目指す「語学」は本当に難しいのです。

 

グローバル社会という世の中の流れを受け、英語教育が注目されるのはよくわかります。

しかし、「教科」という大きな括りの中で、なんとなくの評価軸ではなく、教科一つ一つを学ぶ意義をしっかりと見極めた上でその成果を検証していかないと、国民全体がどこに向けて走っているのかわからなくなってしまいます。

教養としての英語か、コミュニケーションツールとしての実用的な英語か、方針とその達成に向けた仕組みをもう一度見直すべきだろうと考えています。

 

 

写真:oldtakasuさんによる写真ACからの写真