今年の4月に小学6年と中学3年を対象に実施された学力テストの結果として、英語力の習得に課題がある、といった報道が先日なされていました。
私事ではありますが、私は小学生のときに教員を志し、中学生でその科目を英語と定め、大学も教育系学部の文系・英語専攻の道を進みました。
その一環として、在学中に米国に1年間留学したのですが、その生活を通じて学校教育における英語教育の限界を痛感。
その気づきも数ある理由の内の1つとなり、結局、私は教員になるという選択肢を選びませんでした。
【以下、かなり偏った私見を述べますので予めご了承ください】
学校教育には様々な意義・目的があります。
その中で、「科目教育」をなぜ行うかについて考えなければならないわけですが、その総論は後日私見を述べさせていただくとして、
「科目教育」で行っていることと言えば、「知識と技能を養うこと」であり、それらは「座学と実技で得られるもの」に分類されると考えています。
私なりに以下のように分けてみました。
知識A:知識×座学=国語の漢字・語彙、数学の公式、歴史全般、理科の用語など
技能A:技能×座学=国語の文章表現能力、数学の計算能力など
知識B:知識×実習=理科の実験全般、体育の各種競技におけるフォーメーションなど
技能B:技能×実習=体育の運動能力、図工のデッサン力、家庭科のミシンや包丁の使い方など
各分類の具体例はかなり荒くはなっておりますが、以上のようにラベリングしてみると、入学試験のために学ばないといけない対象となっているのは、知識A群と技能A群。社会的に(表面上)重要視されているカテゴリーといえるでしょう。
逆に技能面、特に技能B群は、人生を豊かに、そして健康に生きていく上で必要なものという印象があります。
スポーツ選手や芸術家を志す方でない限り、運動神経が悪くても、絵を描くのが不得手でも成長過程において大きく不自由することはない社会構造となっています。(あくまで一般論として考えられるものであり、私の意見ではありません)
さて、冒頭の新聞記事に戻ります。
よくこうした学力の話題になると決まって出てくるのが英語の実力、特にSpeaking(話す)能力が足りないという指摘。
私は、英語のSpeaking能力は技能Bに属するものと思っています。しかし、技能B群の中において、他教科に比べ英語のSpeaking能力だけが、教養の域を超えて実力の定着が強く求められ過ぎているように思えて仕方がないのです。
英語が、他教科のように人生の豊かさを高める教養の一部として、そして、国語を学ぶ上での比較対象として学ぶのであれば、今のままでいいでしょう。その場合、英語の4技能の習得に対して目くじらをたてて評価する必要がないと思います。
しかし、多文化共生社会に向けて、日本国民全員が英語による一定のコミュニケーションができるよう育成したいのであれば、英語の授業数の圧倒的な増加はもちろん、国として日常生活から英語が傍にある暮らしにシフトしなければ、その目標は叶いません。
私たちは日本語の基礎をいつの間にか身につけてきましたが、ある程度成長してから習得を目指す「語学」は本当に難しいのです。
グローバル社会という世の中の流れを受け、英語教育が注目されるのはよくわかります。
しかし、「教科」という大きな括りの中で、なんとなくの評価軸ではなく、教科一つ一つを学ぶ意義をしっかりと見極めた上でその成果を検証していかないと、国民全体がどこに向けて走っているのかわからなくなってしまいます。
教養としての英語か、コミュニケーションツールとしての実用的な英語か、方針とその達成に向けた仕組みをもう一度見直すべきだろうと考えています。
写真:oldtakasuさんによる写真ACからの写真