初めて、自分のために筆をとったような気がする。
大学時代も、成長のために書道を練習していたのには間違い無いが、
そのモチベーションには違う力も働いていた。
今日は違う。
自分は何故生きているのか、自分は何にとって必要なのか、
自分は何を欲しているのか、自分は何故自分なのか、
しばらく、そんな考えが頭を巡り続けており、
正直疲弊している、というのが情けない本音である。
できれば、痛みもなく害も発生しない破滅をもって
全てを終わらせられたら、というのも弱虫な本音である。
声に出さない自問自答に飽きを覚えて
救いを求めるように思い立ったのが書道である。
全てが無我夢中だった。
何の迷いも無く五體字類を購入し、
何の迷いも無く心に思いつく字を書き続けた。
「曖独拓掌」
全くの造語であり、読み方もわからない。
五體字類を手にした瞬間にこの四文字を書かなければ、
そう感じたのだ。
ただ、5年ぶりに筆を触った身体は字の書き方を忘れており、
自分を見つめ直すには至らなかった、というのが本音である。
ただ、筆の柔らかさ、墨汁の匂い、唯一の集中、
その全てが心地よく、解決なくとも気分がやや晴れたのも本音である。
今日は完全に逃げるための書であったが、
これからは前に歩むための書にしていきたい。
そもそも何故人は生きるのであろうか。
生物の活動とは、本来生きるための活動ではないのか。
だからこそ、食物連鎖は起きるし、防衛本能もある。
それなのに人は、人が作り上げた社会という環境に束縛され、
そこで「生きる」ことが容易に達成できてしまうだけに
生命への喜びを忘れ、自分の外部や内部が生み出す苦しみに、
新たな生き辛さを感じている。
そのようなことを考えつつも、生きていかなければならない。
そう、前に進まなければならないのだ。
曖昧な意義の中を、誰にも頼ることなく独りで、
自らの掌で明日を切り拓いていかなかればならない。
本能が、自分自身にそう伝えたかったのかもしれない。