新型コロナウイルス 感染症について、「絶対に勝つ」「負けない」といった表現を目にします。
しかしながら、「ヒト対ウイルスの闘い」という構造を前提にするのであれば、残念ながらヒトの方が圧倒的に不利であると考えています。
ヒトは、長きにわたってお金を中心に生きていく仕組みを成熟させ、そこから脱することができない状況を作り上げた中で、その仕組みを阻害する目に見えないウイルスと戦うには、我慢することしか戦う術がないからです。
つまり、防戦の持久戦を強いられていることとなります。
そして、以前の記事にも記した通り、これが人類にとって最後の脅威であるはずがなく、第二・第三のウイルスの誕生だって容易に考えられるからです。
この状況を考えると、ウイルスは拡大を続ける一方、ヒトだけが疲弊していき、いずれこの仕組みが崩壊することも想定しなければなりません。
従って、私見ですが、ウイルスとの共存、もしくは感染症のリスクを前提とした社会の再構築を目指すことになるのではないかと考えています。
つい20年前までは、飛行機の中での喫煙が許されていたように、今では信じられないその時々の「当たり前」がありました。
次の「当たり前」の変化として、大勢の人が密集するということ自体がなくなってしまうかもしれません。
もし本当にそうなれば「2000年代序盤までは、乗車率100%を超える電車に乗って、人と人が密着して移動していたんだよ」「それは恐ろしい時代だったね」などと語られることにもなるでしょう。
その変化の一つとして、移動手段においては車の需要がさらに高まり、その利便性の追求として自動運転技術の精度が急加速するかもしれません。
それ以上に変化が訪れることになると思われるのが、家の在り方です。
人が集まることがない社会においては、買い物は通販で、食事は自炊と中食が中心となるでしょうが、世にある「娯楽」を家で行うにはハードルが高い。
カラオケで大声で歌うこと、映画館で迫力のある映画を見ること、コンサートに行くこと、絶景を楽しむこと…
そういった「体験」を家ですることが一般的になる時代の到来を想像しています。
具体的には、各家庭で360度プロジェクターや音響設備が整った防音室の設置が一般的になると面白いな、と。
その部屋の中で、大声で歌い、臨場感の溢れる大迫力の映画を見て、世界中の観客と最前列でコンサートを楽しみ、京都の紅葉やナイアガラの滝を観賞する…
言い換えれば、各家庭が「どこでもドア」を持つようになる、と表現した方が夢があるかもしれません。
ちなみにこの妄想は、常々私が家でレコーディングをしたいと考えているが故に生まれたものだと自己分析しています(笑)
しかし、何らかの「新しい当たり前」を迎える心構えは準備しておきたいものです。