卑怯者の私は、先に予防線を張っておく。
これは、決して誹謗中傷ではない。
ただ、ずっと思ってきた考えを記す。
あの人は、人生をかけてずっと逃げ続けた可哀想な人だ、という印象を抱いている。
テレビ番組では、「いい彼氏」「いい夫」像を述べるに徹し、そうでない男性共演者の生き方を否定し続け、社会的称賛を浴びやすい立ち位置に逃げてきた。
ただ、自分の想いと乖離したそれらの発言の無理がたたり、性の一般的な枠組みから逃げたいという理由で、男性として扱われることだけでなく、戸籍上の親としての繋がりからも逃げてしまった。
逃げることは決して悪いことではない。
ただ、それまで積み重ねてきた自分の発言や行動との比較から、大衆の理解が得られない逃げ方であることは、自明のことであった。
そして最後に行き着いた選択肢は、自分の行ってきたことや大切なパートナー・子供に対する責任を全うすることではなく、そこからすらも逃げるしかなかったのだ。
従って、今回の報道に対し、私はさほど驚きがなかったというのが本音なのである。
多様性の尊重は大切だ。
だからといって、いわゆる大衆でない側の人の思いや発言の全てを社会が認めていいわけではないと思う。
人は、どんな立場であっても、何でもして、何でも言っていいわけではない。
周囲とのバランスを保ちながら、それぞれの居心地の良さを見出していかないといけないし、そのためには自分が多少我慢しなければいけないことも出てくる。
それはマジョリティもマイノリティも変わらないはずだ。
あの人の振る舞いや発言も、きっと身近な誰かが適切な助言をしていれば、身近でない人たちからの心無い言葉も減らすことができたのではないだろうか。
今回の件で、多様性に対する議論や、社会の容認的許容について、視点や論点がずれてしまわないことを願う限りである。